発達障害者の長所?ニューロダイバシティ体験・1

2019年1月25日


障害ではなく神経多様性

このサイトの表題では発達障害者を ≪Developmental≫(発達の)≪dis≫(欠如している)≪abilities≫(能力)とは訳さずに、ニューロダイバシティ≪neurodiversity≫と表しました。

ニューロダイバシティとは「脳の多様性」「神経の多様性」を認めて、発達障害者、精神疾患者の思考の違いを認めるという意味があります。ただ、私としては違いを認めるだけではなく、多様な分野に伸びるどこまでも広がり続ける発想力は「脳・神経の多様性」がもたらす非常な長所であり、発達障害者の優位点という意味で使用しています。

そして、発達障害者が第三者から客観的に見れば「発達の遅れ」と見えてしまう表面は真実ではなく、「神経の多様性」を統合出来ないことによる表現の稚拙さがあり、表現が出来ていない「内面の多面多彩さこそが発達障害者の真実」であると感じます。

発達障害者の持つ「脳・神経の多様性」は、通常なら繋がらない領域を結び付け、新たな閃きを生み出す、、、

ひらめき

のテーマについては、以前のブログでも軽く紹介したことがありました。

 

前ブログ 「発達障害者である専門職のブログ」

「発達障害者が生きづらくなったのは参」 

近年目覚ましい進歩を遂げて次々に明らかになっている脳科学分野。

専門職を名乗るのなら、その見地からこのテーマについて記したい所ですが、私は最新の脳科学の研究ががどこまで進んでいて何が実証されているかなどは知りません。

私が語る様なことなど、もはや当たり前に誰もが知っていることなのか?

実は実証もされておらずでたらめと謗られるのか?

あるいは数十年後に実証されることなのか?

いずれなのかはわかりませんが、まったくの体験記で書かせて貰いたいと思います。

爆発的な知識の結合!ニューロダイバシティ体験!!

私は、この「ニューロダイバシティ」という概念を知る、約20年前に自分の「脳・神経の多様性」を自覚し繋がる体験をしました。

それは自分の説明書を読んで理論的に理解して、手動で電気を着けた様な感覚でした。

そして、それまで頭の中でバラバラに存在していた物事の間に電気が流れてルートが繋がり、次々と融合を果たしていきました。頭の中で散開していた物事は、ネット上に散らばるサイトの様な物でした。そこにネットワークが繋がり統合を果たしたときに、自分の頭の中にあった多様性を実感したのです。

その時まで私は自分の感情や発想を蓄積することなく、日々使い捨てる様に過ごしていました。自分が何を考えて、どういった人間なのかを説明することが出来ませんでした。それらが繋がったときに、はじめての自分のエピソードを持てました

後付けですが、その体験を「ニューロダイバシティ体験」と呼びたいと思います。社会的な言葉のニュアンスとは違いますが、私の中で多様に散らばっていた事象が、結合を果たす事で「脳・神経の多様性」を実感したという意味で勝手にそう呼んでみたいと思います。

その「ニューロダイバシティ体験」を引き起こした、当時19歳の私が読んだ「自分の説明書」とは、、、

「脳科学」でも「精神医学」でもなく「言語学」と「西洋哲学」でした。

大学進学前後の私は、偏差値がおそらく50もなかったと思います。あの頃の私は、実はLD(学習障害)要素が顕著にありました。

勉強をする環境を整えられずに連続して系統だった知識を吸収し続けられなかったのです。

関連記事:LD(学習障害)とは

リンク先:発達障害者である専門職のRE

偏差値や学歴だけが価値ではないと言われる方もおられますが、まともに高校までの知識を蓄積出来ないということは、後々の社会、世界の認識に大きな隔たりを生むと思います。

つまり「知識の断片化」によって世界観が正しく確立されないために、自己の経験と数百年前の物事を結び付けたり、直面する困難をオカルトな解釈で理解しようなどと考えてしまいます。

世界の中の日本

 

地についた社会認識を持つために必要な基礎学力

現在に起こっている物事は、すべて遥か古代からの人々の営みの延長であることを知り、いろいろな問題を抱えながら未来に向かっている途中です。

その認識を持つことが、社会を読み解いて地に足をつけた考えをする上で必要です。地に足をつけるというのは、一見発達障害者の自由な発想を抑制してしまいそうですが、散開しすぎる興味を生活に結び付けて活かしていく為に必要なことなのです。

それらを理解する上で、基礎的な知識が高校までのカリキュラムにあると思います。別に一流国公立大学に行けるほどである必要はありません。当たりまえの歴史的な流れなどを把握出来ていれば、細部に渡るまでの知識の枝葉はいつでも補えます。

その系統だった時代把握や社会認識が出来ていなければ「断片的な知識」を埋めるものとしてオカルト的な話が耳障りよく入り、稚拙で出鱈目な世界観が出来てしまいます。そして、その世界観を語ることで下手をすると統合失調症である判断されてしまうかもしれません。

発達障害を持つ方の多くは、情報を収集する能力に長けています。しかし情報処理と整理が苦手な方が多くおられます。

整理とは、時系列に並べることや、必要な情報と要らない情報を取捨選択することなどです。その基軸にする上でも、均一で系統だった知識が役立つことがあるのです。

また、社会を認識する為のスケールである世界観が間違って形成されてしまえば、日々起こる物事の表面しか見えず、原因と今後の展開が予想できず世の中を見通す視点をずっと他人の論評に任せるしかなくなってしまいます。

ニューロダイバシティ体験をした当時の私は、そんな自分への未来の不安を感じ続けて、読書に明け暮れていた時期でした。

私は受験勉強を行わずに大学に入ってしまいました。だから偏差値が最終的にはどれほどだったのかもわかりません。そして本来ならどこにも入れるはずのなかった大学に、実力ではなく親の財力で入ってしまいました。

今は年間100冊程読む読書も、その当時は1冊も読み切ることが出来ないレベルだったのです。

それは集中力の問題だけでなく「言葉」といものが何かを知らずに多くの「言葉」を間違って覚えていたからです。

それに気づく以前の私を、知的障害者だと思われている方もいました。「言葉」を正確に覚えていない為、自分の考えを表すことが出来なかったうえに、もう一つ大きな問題抱えていました。

仮面たち

感情乖離によるキャラクターのスイッチング

れは、、、感情の「解離」でした。

解離(かいり)と聞いて状態の予測がつくのは、専門職もしくは「解離性障害」の人と関わりのある方々ぐらいだと思います。

何か大きなショック体験などをきっかけに、防衛のために自分の感情や思考が切り離されることを言います。まるで人格障害の様ですが記憶はちゃんと繋がっており、制御出来ない別人格があるという訳ではありません。

しかし、周囲からみると人格が変わった様に見えるほどの性格、言動、キャラクターの違いが見られ、多重人格のように見えてしまうこともありました。

眠れないほど冴えて、眠るとリセットされる頭脳

別人格に見えるほどの振れ幅が出来てしまう要因もまた「神経細胞の多様性」によるものと思います。

脳という大容量データベースが、一日で覚醒する部分は一部分だと実感します。その情報の中にはまったく真逆の感情や、生活と大きくかけ離れた情報も眠っています。

通常であればその様な情報があったとしても、一日の覚醒幅では生活に即した人格情報が保たれて、一昨日も昨日も今日も変わらないその人のキャラクターがあると思います。

ところが、私の場合は感情、思考、情報のフォルダーが別に蓄積をされており、覚醒が十分でいないとインプットされていた情報を使えず、物事の認知も衰え「無の境地」の様にボーッとしてしまうことがしばしばありました。

しかし目覚めのいい時や、時間が立つごとに覚醒して行く時には異様に研ぎ澄まされ、言動やレスポンスもスピードと鋭さをまして、やがて眠れなくなります。

 
不眠が生み出す奇跡の神経回路結合

~ ニューロダイバシティ体験 ~

眠れなくなる程に頭は澄み渡り全方向に神経が研ぎ澄まされていきます。

本来別々のジャンルの様々な情報・知識が結合する様な科学反応が起こります。

この時こそ、多様に広がる神経細胞がネットワークで繋がり、まったく別分野の情報との統合を理解し、ロジカルに説明出来る状態になります。

私はこの危うげな一過的聴覚性を

「ニューロダイバシティ体験」と造語しました。


・知りえる知識が次々と結合し新しい発想を生み出す。

・見えなかった世界が一気に見える

・発想が次々と溢れて実行がおいつかなくなる。


・難解な問題の背景を地図で見る様に一瞬で
 相関性をイメージ。


視界に入るもの全ての動きを
 目で追わずに認知して動きが予測



ニューロダイバシティ体験中にに浮かんだ考えは眠ると忘れてしまいます。

ちなみ現在の文章は丸2日寝なかった時に携帯メモに箇条書きした内容を編集しています。

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極端な神経覚醒を平均化する薬

普段の「ボーッとした」キャラから「異様に研ぎ澄まされた」キャラへの振れ幅は、私のことを近くで見ている人にほど違和感を与えてしまいました。

それをある程度の覚醒具合と振れ幅に調整出来る様になったのは「コンサータ」という薬を服薬してからです。この薬については賛否もあり、マッチングしない人もおられるそうですが、私には馴染みました。

即効性を感じる訳ではなく、飲まなくても欠乏する感じなどはありませんが、服用すると「ピントがあった眼鏡」にかけ直した様に認知がクリアになりました。

覚醒時でない時は、視覚的な認知力と思考力が7割以下に落ち込み霧の中にいるようでした。

コンサータを飲むことで、視界に入るものを認知する力、先を見通す力がクリアになり、奥行きと時系列が見通せる様になったのです。

これまで、低い時で1割前後のパフォーマンスしか発揮出来ないことがあったことが、3~4割ぐらいは安定して発揮出来る様になった感じがします。ただあまり「コンサータ」の効用を語り過ぎると、製薬会社との影の繋がりを疑われるかもしれないので、下記の一文を加えてやめておきます。

※これは個人の感想です。実際の効能を保障するものではありません。

関連記事:LD(学習障害)とは?

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