発達障害者の長所?ニューロダイバシティ体験・2 

2019年1月25日


私は1980年代という時代に、長らく嫌悪感を抱いていた。

 

流行していたファッション、アイドル、文化、雰囲気、すべてが嫌いであった。30代を過ぎるまで受け入れることが出来ないほどに、、、

1980

 

198×年 大阪では珍しく雪が降る日だった。地面には靴がすっぽりと埋もれるぐらいの雪が降り積もり、大粒の雪の塊が降っていた日だった。

 

当時の私は大阪南部の分譲団地に住み幼稚園に通っていた。その地で父、母、祖父母、姉、妹と一緒に住んでいた。

 

祖父母は父方の両親で、ある時期から父が呼び寄せて同居をする様になった。

原因は母の素行が理由であったらしい、、、が真相は分からない。

 

こどもの私には知る由もないことであったし、大人になって「当時の大人たち」それぞれに尋ねても、誰もが自分に都合よく語るので、、、何が本当かは今となっては分からない。

 

ただ明らかなのは、父、母はいがみ合い、祖父母が来てから母は抑えつけられ、日々罵られ続けていたことだった。

 

ある時から、母、姉、妹達が私に内緒の相談をすることが増えて来た。

 

「 どこかにいく?」「いつにする?」「 どうやっていく?」 などと、断片的に聞こえる相談が私の頭の上で交わされていた。

 

たまにはっきりとした声が聞こえたときに

「僕も行きたい」

と訴えると、

「 じゃあ、身体をバラバラにして首だけ持ってくね」

と、奇妙な冗談を母は言った。

「バラバラにしてどうやって戻すの?」

私が尋ねると、

「もう死んじゃうから戻せないから、捨ててしまうよ」

母は、冗談ではなく血の気が引く様な言葉を投げかけた。

 

それでも。あの頃・あの土地でも、楽しいこともあったかもしれない、嬉しいこともあったかもしれない、、、けど、あの日の記憶以外はほとんど残ってはいない。

 

大阪では珍しく雪が降る日、、、計画は実行された。

 

部屋にとても大きな風呂敷包みが置かれていた。

母や姉妹にたずねても、誰も、、、中身も理由も教えてくれなかった。

ただそれを持って、同じ団地の友達の家に遊びに行くという。

 

空からは、大きな雪の粒がしんしんと降り注ぐ中で、私だけこれから起こる事態の深刻さを理解出来ずに、、、

はしゃいでいたのだと思う。しかし、母、姉、妹は神妙な面持ちで、雪の珍しさに浮かれる私をあしらっていた。

 

友達の家に向かう道中で、母の抱える大きな風呂敷のことをたずねても、頑なに教えてもらえなかった。何度も聞くうちについには激しく叱責された。

 

はしゃぎながらも事態の異質さをうすうす感じてはいた、、、 しかし、それまでの人生訓では人が持つ残酷さも、受け止めきれない悲しみも想像することは出来なかった。 

 

友達の家にいくと、一室に大きな風呂敷包みをおいて、私だけ別室で遊ぶことを母達は勧めてきた。そして、深刻な顔で風呂敷を囲みながら、母達と友達の母は話続けていた。

 

何かがあると思っていた私は、定期的に風呂敷の置かれた部屋を見にいき、みんながいる事に安心をしていた。 何度も母の姿を確めて安心を得る中で、いつしか遊びに熱中して風呂敷の存在などを忘れてしまった。

 

そして、何度目かにその部屋を覗いた時に忽然と姿を消していた。

風呂敷も、、、

母も、、、姉も、、、妹も、、、

 

友達の母に尋ねたが、とぼけながら「先に帰ったんじゃない?」などと言った。その後、どんな言葉をかけられたかは覚えていない、ただ私は友達の家を後にする前に自分が置かれ状況を理解していた。


団地の雪

友達の家を出ると、外は吹雪き始めていた。私は雪の降りしきる団地を、泣きながら母を呼んで駆けた、、、大粒の雪は泣き濡れた私の顔を打ち付けた。絶望感で目が回るような必死さで、一人団地の中の広い公園を走りながら叫んでいた「おかあぁぁさぁぁぁぁぁぁぁん!!!」と、、、

 

家にはかなり遠回りをして帰った様な気がする。家に母はもういないと確信していたから、、、その後のことは、記憶が曖昧になっている。

 

家に帰り、泣き疲れて寝て、 起きたら夢であることを期待したが、現実だった。

 

この頃から、私の「感情解離」と呼べる状態は始まっていたみたいです。叔父に聞くと「じっと一点を見つめて考える様になった」と教えられ、友達には「時々人間味がない時がある」と言われることもありました。

 

私はいつまで泣いていたかは分かりません。ただある段階で何も感じなくなった瞬間が来たと思います。受け止めきれない感情が枯渇したのちには、感情をまったく排して他人の様に現象や法則性を分析する一面が表れるようになりました。

 

その後の生活はほとんど覚えていませんが、嘆き暮らしたかというと実はそうではありませんでした。 まるで何事もなく幸せに感じたり、バカみたいに笑ったり、楽しく過ごせるときも多々ありました。

 

感情は出るときにまとめて出て来ました。些細なことであっても少しの悲しみの感情に母に対する思いが噴き出して号泣になってしまいました。それは、恥ずかしい話ですが中学生頃まで続きました。

最近知ったことですが、これは自閉症スペクトラム特性の「タイムスリップ」と呼ばれるものらしいです。何事もなかった様に何年過ごしていても、何かのきっかけに「まるで最近起こったことの様に鮮明な過去が再現されて感情が再燃する」のです。

 

軽く人格を入れ違えるみたいに、感情のスイッチングが起きていました 。つまり、コンピュータのデスクトップで表すなら、悲しみは悲しみのフォルダに、喜びは喜びのフォルダに、分かれて直されて、別々に保管されている状態です。

 

 

ただ、基本的には悲しさに引っ張られることが多く、些細なことで必要以上に落ち込みやすい部分を抱えていました。そしてどうしようもなく悲しみに支配される日が続くと、反動で楽しく人生に何の苦痛も感じていない様な躁状態になる事もありました。

 

客観的に診断をされると双極性障害(そううつ病)の様ですが、主治医に相談すると発達障害ベースの場合は違うと言われます。

 

しかし、 私は同じことが起こっているのではないかと思っています。発達障害と他の精神障害すべてに同一の根があり、実は同じなのではないかと極論では考えています。

 

精神科の診断というものは、構造のわかりにくい精神疾患者の思考、感情、行動を第三者が見て分類化したものです。客観的には「どうしてそんな考えになるのか?」「そんな不安を抱えるのか?」理解がされないから、まるで統計学の様に一人一人の患者の行動を観察して分類をしていったのです。

 

精神疾患は診断分類で分けられないとする「単一精神病理論」というものが、実はあるらしいのですが、私がこの様な考えにいたったのは逆の見地からでした。つまり、発達障害を他の精神障害とは違うと考えて知識を深めていく中で、逆に他の精神疾患との共通項や類似を多くを見つけていきました。

 

「発達障害と他の精神疾患の共通項」と「ニューロダイバシティ体験」については、次回に続きます。

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リンク元:発達障害者である専門職のRE